朝だけがもたらすことの出来る爽やかな空気の中に
その空気にも負けないくらい爽やかな男の子が
さらに爽やかなピアノの音色を紡いでいた
una corda
私はまるで敵でも睨むかのような眼力で譜面台を見つめた
その様子に長太郎も苦笑している
どう考えてもおかしい
自分と長太郎は正面から見ても逆さまから見ても斜め32.8°から見ても同じ楽譜を見てる
長太郎が奏でていたピアノだって、魔法使いが一瞬ですり替えたってことがなければ同じもの
じゃあどうして長太郎の弾いたのと自分が弾いたのはこんなにも違うのだろう
「不満そうだね」
「だって・・・・・・」
その先の言葉は言わなくても解るよ、とばかりに長太郎が笑った
少し膨れてみせる私の手に自分の手を重ねて、旋律を奏で始める
次の音へ移動しようとする私の指が時には抑えられて、時には引っ張られて、
私の心も音色も長太郎の色に染まっていた
演奏が終わって、長いため息をついてから彼の右手に寄りかかれば男の子特有の力で支えられて
私の心が休まる音色を奏でるその手を見つめているともう片方の手が私の髪を撫でた
「長太郎、もしかしてペダルもう一本踏んでたの?」
「うん。一番左のをね」
両手を使って演奏しながら、両足も使うなんて
長太郎の足が置かれているペダルは前から不思議だった
踏んでもあまり音が変わらないし、音が伸びる訳でもない
「una cordaって言うんだ」
「ウナコルダ?」
「和名では『弱音ペダル』。音が少しだけ小さくなって、ほんの少し丸みを帯びた音になるんだよ」
私が少し身を離すと長太郎が小さく頷いて、演奏を始めた
ドビュッシーの『月の光』
柔らかく、美しいその名の通り月の光を思わせる優しい音色
「『月の光』みたいに大人しくて柔らかい音楽はなるべくuna cordaを踏むようにしてるんだ。
少し聞いただけじゃ解らないかもしれけれど、音が澄んでいくような気がするんだよ」
「・・・・・・・・・ホントだ」
まるで、長太郎みたいだと思った
ピアノだけじゃなくて、楽器を演奏するとその人の個性が音調に現れる
優しくて、丸みを帯びていて、暖かい
どこまでも澄んでは響く音色
「長太郎みたいだね」
「una cordaが?」
「うん。たまにはやってみようかな、una corda」
「是非そうしてよ、俺も大好きなんだ」
眩しいくらいの笑顔に私もつられて笑った
長太郎の奏でる音色はお月様みたい
澄んだ音とか、繊細な音色とか
長太郎の笑顔はお日様みたい
心が暖かくなって、心地良くなる
「でも、ペダルの二本踏みは大変そうだし長太郎に片方踏んでてもらおうかな」
「・・・はは、慣れるまではその方がいいかもね。でも、いつまでも俺がいる訳じゃないからね」
いきなり耳の中で心臓の音が大きく鳴り始めた
居なくなる? 長太郎が、私の傍から
こうして毎朝一緒にピアノを弾くことも
あなたが大好きなテニスを一緒に観ることも
今まで二人なら大丈夫だねって笑って過ごせたことも
全部、無くなってしまう―――?
今まで淡雪のように儚くて美しいと思えた音色が、淡雪のように儚くて消えゆく音に変わった
触れればじゅっと音をたてて消えていってしまうような、それでも心から願うこの想い
いかないで 私の傍に居て
「どうかした?」
「長太郎、居なくなっちゃうの?」
「え・・・?」
「嫌だ!いかないで、長太郎!」
「ちょ、お、落ち着いて? 俺はどこにもいかないよ」
「・・・・・・・・・え?」
両肩をしっかりと包まれてふと我に返れば長太郎の強い瞳に出かかった涙も引っこんだ
長太郎の銀色の髪が朝日にあたって綺麗、なんて今更ぼんやりと思う
「嫌だなぁ、ちょっと言ってみただけだよ。
俺がをおいてどこかにいくと思う?」
「・・・・・・長太郎!」
「わっ、ごめんごめん!あはは!」
「もう、知らない!」
ぷいとそっぽを向くと長太郎の笑い声も止んだ
しばらくして、耳に響く優しい音色
振り向けば涙が滲むほど優しい瞳
その優しさばかりしきつめたみたいな人に敵うはずもなかった
「長太郎!ピアノ教えて」
「・・・良いよ」
風に吹かれてめくれてしまった楽譜を元に戻して、私は椅子に座りなおした
長太郎がuna cordaに足を置いたのを出発点に1,2と数えて
私たちの奏でる音色が音楽室に再び響き始めた